映画とアートの意外な関係 NEW

PICTURES IN MOTION PICTURES

エンパイア・オブ・ザ・ウルフL'empire des loups (2005)

ローマ教皇と切り刻まれた惨殺死体の奇妙な関係

ちょっと待って、さっきのは誰?

アンナ(アーリー・ジョヴァー)は顔の認知に関する深刻な悩みを抱えていた。専門医を訪れ、MRIに頭を突っ込み検査を受けたが、色の認知や形の認知は問題ない。記憶についても主要国の首都名は覚えている。認知能力と単純な記憶力は正常だ。

顔写真を見てそれが誰かを答える検査になった。毛沢東ケネディチェ・ゲバラ、しかし次の写真が誰なのか、どうしても思い出せない。アンナは焦る。知っている顔なのに!パスして次の写真に進めようとする医師を遮って、「ちょっと待って、さっきのは誰?」とアンナは叫ぶ。医師は困惑した表情でアンナに告げた。「ローランだよ、君の夫の」

監督       クリス・ナオン

原作・脚本 ジャン=クリストフ・グランジェ「狼の帝国」

出演 :ジャン・レノ(ジャン=ルイ・シフェール)、アーリー・ジョヴァー(アンナ・エメ)、ジョスラン・キヴラン(ポール・ネルトー)

 病院の待合室に飾ってはいけない絵

女性の惨殺死体が発見された。これで3人目だ。顔は切り刻まれて誰だか身元が分からない。拷問されて付いた傷のようだ。さらにネズミを使った拷問。陰部から子宮まで内側から噛みちぎられている。足の骨が砕かれているのはファラカというトルコ式拷問の特徴だとパリ警察の刑事ジャン=ルイ・シフェールは呟く。

唇は裂け、目は跡形もなく顔全体が切り刻まれ分断されている。このイメージが映画の謎を解くキーになっていることに、このあとすぐに気づかされる。

ケネディ毛沢東の顔は分かるが、自分の夫の顔が分からない。親しい知人の顔が突然認識できなくなる相貌失認という脳障害があるが、アンナの場合はどうもそうではなさそうだ。モナリザの画像を見て「ラ・ジョコンド」と答えられる。モナリザの顔ですら見分けられるというのに。自分の精神がおかしくなったのだろうか。

思い余ったアンナは精神科医マチルド・ウラノ(ラウラ・モランテ)を訪れる。ウラノは成功した医者なのだろう、バカラのショップなどが並ぶ高級な通りに医院を構えている。

待合室に入ったアンナは椅子に座り、絵に気づく。目の前に鏡があり、アンナの真上にある絵と椅子に座ったアンナが映っている。座っている椅子は絵のなかのローマ教皇の椅子とよく似ている。

待合室の壁に掛かっているのはフランシス・ベーコンの『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作』(1953年)。

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上 左がフランシス・ベーコンの『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作』(1953年) 右が鏡に写った同作品

ベーコンの絵は恐ろしい、縦のストロークで顔が切り刻まれているようにも見える。アンナはおびえる。なんといってもその絵の下に同じような椅子に座らされているのだから。

しかも映画の観客は、鏡に映ったアンナとその絵をアンナの視点から見せられ、いやが上にもアンナの気持ちと同化させられる仕組みだ。

でもなぜベーコンのこの絵が使われているのだろう。ショッキングな絵面は映画に登場した女性の惨殺死体を連想させ、アンナが手に取った「整形外科」の本には、顔を刻まれた図版が満載だ。またアンナの精神的な怯えを描くだけでなく、アンナの記憶喪失につながるこの映画の重要な伏線にもなっている。

アンナは夫が整形手術した可能性を聞くが、ウラノは一笑に付す。しかし気になるのか形成外科の本を手に取り、顔の手術の写真を見る。そして寝ている夫の頭部に手術跡がないかを探る。しかしそこには何もなかった。

ベッドを離れシャワーを浴びているアンナの脳裏に突然、顔を刻まれた教皇の絵が浮かび上がる。啓示を受けたように鏡で自分の頭部の髪の生え際や耳の後ろを見ると、そこには手術跡があった。顔を変えられたのは自分の方だったのだ!

ベーコン絡みでよくできたエピソードだ。ウラノの医院で医学書を手に取ったことがきっかけとなり、アンナは自分が整形され記憶も奪われている事実に辿り着く。ベーコンは1935年にパリの古書店医学書を購入し、医学への関心を深めている。とりわけ口腔に関する病気や治療に関することに興味を抱いていた。アンナもベーコンと同様に医学書を手に取り、ベーコンの絵が啓示となって真相を知る。《エンパイア・オブ・ザ・ウルフ》とベーコンの関連を探るために、まずベーコンの生い立ちを辿ってみよう。

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右のベーコンの絵は左のベラスケス『教皇インノケンティウス10世の肖像』(1650年、ドーリア・パンフィーリ画廊蔵)に基づいている。

 女装趣味のあるゲイとして生きる

 1909年にアイルランドのダブリンで生まれたベーコンは、思春期に多くの犠牲者を出したアイルランド独立戦争を経験している。英国に渡ってからは第一時世界大戦も第二次世界大戦も経験した。多感であったベーコンの人格形成に戦争という暴力は大きな影響を与えたに違いない。

同名の哲学者であるフランシス・ベーコンは遠縁にあたる。ベーコンはゲイであり女装趣味があったが、それは厳格な軍人であった父親を困惑させていた。ある日、ついに母親の下着を身に着けている現場を見つかり勘当されてしまう。ベーコンはロンドンに渡り男娼となって生計をたてる。勘当したもののベーコンの行く末を心配した両親は、母方の親戚で叔父にあたる競走馬ブリーダーのハーコート・スミスをベーコンのもとに送る。

ところがあろうことか、この叔父はバイセクシャルでベーコンと深い関係になってしまうのだ。ミイラ盗りがミイラになったような事態に両親の無念も極まった。

二人は仲良くベルリンへ旅行する。ところが、このベルリン旅行がベーコンにとって重大な転機になろうとは! 

ベーコンはベルリンの映画館でセルゲイ・エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)を観てしまったのだ

 エイゼンシュテイン戦艦ポチョムキン》との出会い

 ベーコンはセルゲイ・エイゼンシュテインの映画《戦艦ポチョムキン》の中の、有名なオデッサの階段の虐殺シーンに衝撃を受けた。そして鼻眼鏡をかけた叫ぶ乳母から叫ぶ教皇のイメージをインスパイアされた。『戦艦ポチョムキン』のスチール写真と『叫ぶ教皇』を比較してみよう。ベーコンが『戦艦ポチョムキン』を引用したのは明らかだろう。

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上左 『戦艦ポチョムキンオデッサの階段の虐殺シーン セルゲイ・エイゼンシュテイン監督 1925年

上右 フランシス・ベーコン『叫ぶ教皇の頭部のための習作』 1962年 縦49.5×横39.4センチ 油彩・キャンバス イエール・ブリティッシュ・アート・センター蔵

物的証拠もある。ベーコンの死後、アトリエの資料はダブリン市のヒユー・レーン美術館に収蔵されたが、調査の結果、『戦艦ポチョムキン』のスチール写真が掲載された雑誌の切り抜きが見つかったのだ。 

「つまり…わたしのすべてが嘘だったの」 

記憶と顔を奪われたアンナに女医マチルドは力を貸す。なにか手がかりが体内に残っているはずだ。血液を調べてみると、放射性物質が多量に含まれていることがわかったが、爪の色に気づいた医師が爪に付着した色素を調べ、トルコ中部に生息するヘンナの染料であることを突きとめた。医師は言う。「マダム。あなたは前世でトルコ人だった」

 

最初の殺人が起こったとき、警察が不法移民を手引きする組織を捜査し、ひとりの移民女性を連れて行った。顔写真をモンタージュするとアンナの顔が現れた。その女性こそアンナだったのだ。アンナは顔を整形され、元の人格を消された。まるでベーコンが教皇の顔を切り刻み教皇としての人格を消したように。

テロ対策部隊の隊長であるフィリップ・シャルリエ警視(パトリック・フラールシェン)は、9.11以後、テロリストの記憶を操作し、スパイに仕立てる作戦を開始していた。アンナは新しい人格を作る実験台だったのだ。

「つまり…わたしのすべてが嘘だったの」 

「アンナのままでいたかったわ」 

惨殺された3人は、灰色の狼(ボスクルト)という極右組織がアンナを捜す際の犠牲者だった。

それを知ってすべての謎が解けた。

灰色の狼と言えば、ローマ教皇暗殺未遂事件を起こした組織ではないか!1981年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世バチカンのサン・ピエトロ広場で銃撃した人物メフメト・アリ・アジャは灰色の狼の一員だった。 

映画に登場するローマ教皇の絵の作者ベーコンにとってアイルランドに生まれたことが不運だった。同性愛を認めないローマン・カトリック信者が9割近いアイルランドは、ゲイであり女装趣味をもつベーコンが住みやすい国ではなかった。               ローマ教皇を執拗に切り刻んだり(教皇が口を開けて叫ぶ絵のシリーズは45点以上といわれている)、悪夢のようなキリスト磔刑図を描いたりしたのは宗教と無関係ではないだろう。

そのことがこの映画となんの関係があるのか。ずっと燻っていた疑問が、殺人は灰色の狼による犯罪だったということで氷解した。顔を刻まれ叫ぶ教皇の絵はこの映画の背後でサブリミナル効果のように見え隠れしている。 

記憶を元に戻す処置をおこない、アンナは自分の正体を知った。内務省の高級官僚の妻などではなくテロリストとして育てられた自分に。マチルドに「どう思った?」と聞かれてアンナは答える。

「アンナのままでいたかったわ」 

 

(補説)ベーコンを引用する映画

 映画《エイリアン》での造形デザインで有名なH・R・ギーガーがベーコンのこの絵からインスパイアされたとよく言われるが、確かに似ている。

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上左《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)》(1944年)  上右:エイリアンを製作中のギーガー  下:デヴィット・リンチ監督《イレイザー・ヘッド》(1977年)

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デヴィッド・リンチ監督の《イレイザー・ヘッド》(1977年)にもよく似た造形の赤ん坊が登場するが、やはり似ている。                          ロマン・ポランスキー監督の《ポランスキーの欲望の館》では、部屋にベーコンの絵が飾られていたし、ベルナルド・ベルトルッチ監督の《ラストタンゴ・イン・パリ》(1972)でもタイトルバックにベーコンの絵が登場する。1964年に制作された《ルシアン・フロイドとフランク・アウエルバッハの二重肖像》の左半分ルシアン・フロイドの方を使用している。

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キャンバスに油彩 各パネル:65 x 56 3/8インチ(165 x 145 cm)ストックホルム近代美術館蔵

タイトルバック後半に使用されているのは、《イザベラ・ロウストホーネの肖像画》でやはり1964年に制作された作品。アーチストでありセットデザイナーであるイザベラ・ロウストホーネはヘンリエッタ・モラリスとともにベーコンにとって最も親しい女性だった。

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スタディ・フォア・ポートレート(ISABEL RAWSTHORNE)1964年 キャンバスに油彩 78 x 58インチ(198 x 147.5 cm)個人蔵

修道士とダニエル・クレイグが絡むベーコンの映画 

デレク・ジャコビがベーコンを演じ、その愛人であるジョージ・ダイアーをダニエル・クレイグが演じるという悪夢のような映画がある。ジョン・メイブリーが監督した《愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像》という映画だけど、この邦題は酷い。原題は《Love Is the Devil: Study for a Portrait of Francis Bacon》でどこにも「歪んだ」などと入っていない。ゲイに対する偏見があるのだろうか。

デレク・ジャコビはテレビドラマ《修道士カドフェル》で修道士を演じ高い評価を得ていたわけで、そんな俳優が筋骨たくましいダニエル・クレイグと絡むというのは、見てはならない修道士の秘密を覗き見するようで、別の意味で背徳的な感じがする。

 

参考

キティ・ハウザー「僕はベーコン (芸術家たちの素顔)」、パイインターナショナル、2014年

http://francis-bacon.com/

「狼の帝国」 ジャン=クリストフ・グランジェ 高岡真訳 創元推理文庫

 

(おまけ)

アンナはフォーブル=サン=トノレ通りにあるチョコレートショップに勤めている。原作では「店全体が、まるで大きなチョコレートの箱だ」と形容されている店で、近くにはティーショップの《マリアージュ・フレール》やレストラン《ラ・マレ》がある。