映画とアートの意外な関係 NEW

PICTURES IN MOTION PICTURES

殺しのドレス(Dressed to Kill)1980 

外観と内部が違う美術館で外見と内面の違う男女が出会うお話

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監督・脚本   ブライアン・デ・パルマ
出演者     ケイト・ミラー(アンジー・ディキンソン)、ロバート・エリオット
        (マイケル・ケイ ン)、リズ・ブレーク(ナンシー・アレン)、ピー
        ター・ミラー(キース・ゴードン)

人間の内と外の不思議さと矛盾

性的な欲求不満の人妻が美術館で出会った男と情事に及び、その後殺される。目撃者の娼婦と被害者の息子が協力して犯人を見つけ出す。大筋をこう書けば通俗的なテレビドラマのようで身も蓋もないが、実は洗練された映像の暗喩がこの映画の魅力になっている。

1976年の《キャリー》で一躍脚光を浴びたブライアン・デ・パルマ監督の出世作殺しのドレス》(1980年)は、ヒッチコック作品へのオマージュが溢れた作品としての評価が定着している。*1

映画の冒頭、シャワールームでケイト(アンジー・ディキンソン)はシャワーを浴びている。突然その背後に逞しい男が現れ、ケイトの身体に手を這わせる。男の手とケイトの顔が交互に映される。恍惚とした表情のケイト。シャワールームはガラス張りで、目の前で夫マイク(フレッド・ウェバー)が髭を剃っているというのに!

でも、これはケイトの夢想だった。ケイトは夫との性生活に不満を抱えており、精神分析医ロバート・エリオット(マイケル・ケイン)のカウンセリングを受けている。

シャワーのシーンは映画のラストにも登場し、リズ(ナンシー・アレン)が何者かにナイフで襲われる。映画の最初と最後がシャワールームという設定は、映画構成の工夫であるとともにヒッチコックの〈サイコ〉での殺害シーンを想起させる仕掛けであり、ヒッチコックへのオマージュとしてたびたび指摘されている。

しかしデ・パルマ監督のヒッチコックに対する思いは、単にシーンの模倣に現れているわけではない。この映画ではケイトの性に対する強迫観念とエリオット医師の殺人への強迫観念が作品の主題の根幹にあることからもそれは窺える。性のことがいつも頭のどこかにつきまとったり、自分では止めようもなく殺人を犯してしまったりする人間の不思議さ、矛盾、弱さ。これらはヒッチコック作品にも通じる重要な部分である。

さらに《殺しのドレス》が優れているところは単にプロットだけではなく、人間の内と外の不思議さと矛盾を映像の暗喩を通して描いているところにある。

外観と内部が違う不思議な美術館 

映像の暗喩とは何か。
その秘密を解く鍵はケイトが訪れた美術館にある。エリオット医師を訪れた後、ケイトは義母と夫との待ち合わせ場所であるメトロポリタン美術館に向かう。ここで昼食をとる予定だ。ケイトは2階の展示エリアに続く大階段を昇っていくが、目の前にディアナ(ダイアナ)の彫像がある。(写真1)ディアナはローマ神話の狩りの女神。ケイトは何を狩りに行くのだろう。

f:id:duchamp1:20190404155543p:plain写真1               写真2 

だが、ちょっと待てよ、何かがおかしい。メトロポリタン美術館にこのディアナ像はあるが、こんな大階段の上にあるはずはない。彫像があるのはアメリカ美術の広間であり、その真ん中の高い台座に設置されていなければならない。(写真2)

展示場所が変わったのだろうか。なぜこんな階段の上に?と疑問が溢れてくる。

実は、この大階段はメトロポリタン美術館ではない。

これはフィラデルフィア美術館のエントランスであり、ディアナ像は2階踊り場の正面に設置されている。つまりケイトが入った美術館は、外観はメトロポリタン美術館だが内部はフィラデルフィア美術館だったのだ。

実に奇妙な事が起こっている。しかし、それに気づく人がどれほどいるだろうか。少なくともニューヨークとフィラデルフィアにある両方の美術館に行ったことがなければ見過ごしてしまうだろう。

デ・パルマ監督は、脚本を書き上げたあと、ニューヨークの街をロケハンして回った。台本にはMUSEUMとしか書かなかったが、ロケハンしてメトロポリタン美術館が気に入った。しかし、メトロポリタン美術館では、正面入り口しか撮影の許可が下りず、美術館の内部はフィアデルフィア美術館で撮影することになった。事の経緯はこのように説明されている。

事実関係はそうだろう。撮影の成り行きでそうなったのかもしれない。それにしても、外観と内部が違う場所で、やはり外見と内面が違う男と女が出会うというシチュエーションが生まれたのは、偶然にしてはできすぎている。

なぜなら、この映画《殺しのドレス》は性同一性障害で二重人格の人物、精神分析医のエリオットが殺人犯なのだから。男の人格がエリオットで、女の人格がロビー。エリオットが男性として興奮した時に、ロビーが目覚めるという設定だ。

そして被害者も、外見は貞淑な人妻なのに実は出会った男とすぐにセックスしてしまう二重人格の欲求不満女なのだから!

ケイトの視線でギャラリー・ツアー

f:id:duchamp1:20190404155451p:plain《Reclining Nude》トミー・デイル・パルモア 1976       《West Interior》 Alex Katz 1979  

美術館で待ち合わせの時刻が気になってケイトは時計を見るが、ケイトがソファに座って見ているのはトミー・デイル・パルモア(Tommy Dale Palmore)の《Reclining Nude》とポートレイトの大家アレックス・カッツの《West Interior》。彼女が見知らぬ男と出会うのはこの絵の前だ。(ちなみにデ・パルマの台本では大きなルソーの絵の前となっている)

ケイトは隣りに座った男が気になって仕方がない。何とか男の気を引こうと試みるが、男は立ち上がり去って行ってしまう。

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絵の前で座って待ち合わすシーンもまたヒッチコックへのオマージュだろう。《めまい》(1958)でマデリン(キム・ノヴァク)がパレス美術館(California Palace of the Legion of Honor)でカルロッタ・バルデス肖像画に見入っているシーンがある。《殺しのドレス》では現代的な女性像だが。

ケイトは男のあとを追って美術館の中を探し回る。カメラ・ワークの妙は、男を探すケイトの視線がそのままギャラリー・ツアーになっていることだ。観客は映画を通してフィラデルフィア美術館の名品を見るように仕掛けられる。

まずミロの部屋からケイトは眺め回す。男はいない。
次に焼成鋼板にシルクスクリーンプリントされたジェニファー・バートレットの《2 Priory Walk》、そしてモーリス・ルイスの《Beth》、地元作家であるポール・キーンJRの《Untitled》などの名品が次々にケイトの背後に映し出されている。観客はケイトとともに男の行方を追いながら、美術館の名作を見て回るという趣向だ。

f:id:duchamp1:20190404160830p:plain《Painting》ジョアン・ミロ 1933          《2 Priory Walk》ジェニファー・バートレット1977

モーリス・ルイスの《Beth》が映ったとき観客はドキッとする。血のような色合いのカーテンの向こうに、掌や身体の部分が影絵のように透けて見える絵だ。

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                《Beth》 Morris Louis 1959-1960

映画ファンなら《サイコ》のシャワールームでの殺害シーンを暗示していることに気づくだろう。しかもモーリス・ルイスの制作手法は傾けたパネルに絵の具を垂らすというもの。赤い絵の具は血のように滴って見えるのだから。

アート作品は設置された場所や状況によって見え方が違ってくるものだが、この映画ではそれが不気味に実感できる。

それにしてもギャラリー・ツアーは不自然なほど長く、9分間にも及ぶ。
撮影許可の交換条件として美術館のPRシーンを撮ること、という裏条件でもあったのかと思うほどだ。このシーンを見て美術館に行ってみたいと観客が思ったりしたら、それこそ思う壺だろう。

実際のところ、トリップアドバイザーのホームページのニューヨーク・シティ観光情報の口コミ欄には「映画『殺しのドレス』を見てメトロポリタン美術館に行きたくなった」という声も上がっているほどだ。もちろんメトロポリタン美術館へ行っても映画で見た絵を見ることはできないが。

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黒づくめの殺人鬼

ケイトは男を追うのをあきらめて美術館を出る。いや、あきらめたのではなく、外まで追いかけてきたのかもしれない。ケイトが出てきた場所はメトロポリタン美術館の外観に戻っている(白いコートの女性がケイト)。このあと停めてあったタクシーの窓からケイトの手袋をひらひらさせている男が映り、ケイトは車の中に引きずり込まれる。

その直前、黒いサングラスに黒いコートを着たブロンドの女性が一瞬映る。このあとケイトがエレベータの中で再会したとき、それは殺人鬼だったとわかる。しかしほんの一瞬のことで、しかもケイトと言葉を交わすわけでもなく映り込んだ人物のような扱いだから、この映画を一度見ただけではこのサインに気づく観客はすくないだろう。

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黒衣の殺人犯にもデ・パルマ監督のヒッチコックへのオマージュが見られ、《ファミリー・プロット》(1976)でカレン・ブラックが演じたフランのファッションそのままなのはご愛嬌。

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(上)マイケル・ケインの女装(下)《ファミリー・プロット》でのカレン・ブラック

マディソン・スクエア・ガーデンを飾る金色の女神

この映画ではディアナ像が重要な役割を果たしている。ディアナ像はメトロポリタン美術館フィラデルフィア美術館を結ぶオブジェであり、映画の主題でもある内と外の世界を結ぶ手がかりとして機能している。

作者はオーガストス・セント=ゴーデンス(Augustus Saint-Gaudens,1848-1907)。19世紀アメリカ美術を代表する彫刻家のひとりだ。一般的には彫刻家としてよりも、20ドル金貨の作者として著名かもしれない。自由の女神や鷲がレリーフされている20ドル金貨は別名「ダブル・イーグル」とか、作者の名をとって「セント=ゴーデンス」とも呼ばれている。

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こちらの写真に注目してみよう。19世紀末のマディソン・スクエア・ガーデンを写した写真だが、おやおや、てっぺんにあのディアナ像が立っているではないか!これはどういうことだろう。

種明かしをすると、ディアナ像はもとから美術館にあったのではない。ゴーデンスのディアナ像は1890年にスタンフォード・ホワイトが設計したマディソン・スクエア・ガーデンの屋上を飾る風見として造られた作品だった。

像の頂部は地上347フィートに達し、これは当時のニューヨーク市では自由の女神を抜いてもっとも高い。1891年に最初に設置されたバージョンは建物に対して不釣り合いに大きく、またその重量が災いして風を受けてうまく回転しなかった。

そこで1893年にちょっと小振りなセカンドバージョンに取り替えられる。小振りと言っても作品の高さは13フィート、重量は1,500ポンド。最初のバージョンの高さ18フィート、重量1800ポンドに比べれば小さくなったが、それでも当時ニューヨークで一番天国に近い場所にそびえ立った。昼間は太陽の光を受けて金色に輝き、夜になると電気で照らされたディアナ像は、遠くニュージャージーからも見ることができたという。

もう一度フィラデルフィア美術館のディアナ像を見てみよう。

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1925年にマディソン・スクエア・ガーデンが解体されたことに伴い寄贈されたディアナ像は大階段の上にある。美術館を訪れた人びとはディアナ像を見上げる。まさにかつてのニューヨーカーがそうしていたように。

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メトロポリタン美術館に展示されているディアナ像はハーフサイズのキャスティングである。彫像は台座の上に設置されることが多いが、それにしてもこの台座はちょっと高すぎないだろうか。これでは見るときに下から見上げなければならないし、第一作品がよく見えない。美術館の展示方法としては明らかにおかしい。

わざわざこんな高いところに展示したのは理由がある。それは、ディアナ像がもともとはニューヨークの街を見下ろす高さに設置されていたことへの思いが込められているように思える。

自分が住む街の一番高いビルのてっぺんに、住民を見下ろすかのように女性像が立っている。しかも一糸纏わぬ女性が片足を上げて。

いかに芸術作品であるとは言え、そうした存在はこんにちの私たちにとっても悩ましいが、19世紀末の市民にとっては更に心穏やかではなかったことだろう。とりわけ5番街の大邸宅の住民にとっては。頭上から私生活を覗かれているような気分になり、不愉快極まりなかったに違いない。

実際、彼女のヌードはニューヨーク悪徳抑制協会(New York Society for the Suppression of Vice)の責任者であるアンソニー・コムストック(Anthony Comstock)を悩ませた。

倫理感あふれるアンソニー・コムストックが率いる市民たちは、像を取り下げるよう要求したが、まんざらでもない人々は太陽の光の中で輝くディアナを見るために群がったとアトラス・オブスクラ*2は伝えている。

こうして裸の女性像は人びとの怒りを買うとともに他の人たちを喜ばせもしたが、ニューヨーカーに嫌われた像として広く知られるようになった。世評を気にしたホワイトはディアナ像を覆い、秘所を隠すようにしたが、それはすぐに風で吹き飛び、人びとを喜ばせることになった。

しかしこのあとホワイトには全米を揺るがす数奇な運命が待っていた。

*1:シャワーシーンが重要な映画だった《キャリー》でデ・パルマ監督はデビューしている。

*2:オンライン・マガジンhttps://www.atlasobscura.com/